pachibee
動画検索

名店グリンピース新宿本店の思い出

2022年02月15日

2022年の年明け早々に、信じたくないニュースが飛び込んでまいりました。グリンピース新宿本店が閉店する・・・と。東京近郊に住んでいない方でも、パチスロ好きならば一度は耳にしたことがあるでしょう。まさに名店、老舗店でありました。

この新宿本店。私がホール方向の記事を書く際に、頭の中に思い浮かべるホールだったりもします。「グリンピースさんはどうやっていたっけかな?」パチスロファンにはレトロ台を多く残すホールとして認識されていたかと思いますが、時代を先取りした・・・時には先取りしすぎて勇み足となったり、後にパクられることもある前衛的なホールというのが、長年の私の見立てです。

なので、とても参考になったのです。実はコロナ禍の営業でも、一度目の緊急事態宣言の自粛明け、真っ先に見に行ったのはここグリンピース新宿本店でした。

なぜ前衛的な仕掛けもするのか。「すべてはパチスロ好きの人のために」これに尽きるでしょう。


グリンピース新宿本店の開店は、1988年9月。私はまだパチンコ・パチスロを知らない高校生でありました。初めて入店したのは1991年。開店から3年目ですね。新宿本店の看板に書かれていたキャッチコピーは「パチスロのデパート」でした。

当時はまだまだパチンコが主流中の主流で、この頃のパチスロは、パチンコのオマケ的な存在でした。普通のPS併設店の大半はパチンコ。パチスロは片隅にちょっと置いてある程度。利益を出すよりも、稼働さえしてくれていればOK。そこのお客さんもいずれパチンコに溶かしてくれるだろう・・・という感覚のところが一般的だったかと思います。

しかし、ここにはパチンコはありません。そう、パチスロ専門店の先駆けがグリンピース新宿本店だったのです。

当時を語る上で欠かせないのが“モーニングサービス”です。ほぼノーマル機しかなかったパチスロでは、朝イチにBIGが成立している台が用意されていたのです。モーニング台をツモれれば勝てる。貧乏学生・ご新規さんホイホイですね。私もそれに釣られてパチンコ・パチスロを始めたのでした。

当初は予備校の近くのホールで打っていましたが、モーニング台をしっかり見極めて取りたいといろいろ考えるようになり、モーニングが入っている時はこう止まりやすい(リーチ目はない機種)というものを発見し、ガンガン取れるようになって、そのホールから出入り禁止を告げられたのです。

さて、困った。出入り禁止にされたとはいえ、詳しく観察していたのはその「スーパーセブン」だけ。他に何の機種があるのかも知りません。それしか打てないのです。どこに行けば、知っている(つもりの)「スーパーセブン」を打てるのだろう?P-WORLDどころかインターネットもない時代。その時に思い出したのが「パチスロのデパート」という看板でした。あそこにならあるかもしれない。

1991年の春頃。新宿本店のラインナップはこのようになっていました。2階だけはうろ覚えですが。

B1F:改装中
1F:スーパーバニーガール
2F:お試しの新機種など複数機種
3F:スーパーセブン
4F:初代アラジン
5F:倉庫

各フロアは約40台で2階以外は同じ機種で揃えられていました。「スーパーセブン」があることに安堵。しかし、朝イチは中段で7が揃えられており、モーニングが入っていそうか推測もできません。「パチスロを打つのは楽しいけど、勝つのは難しいかな」なんてことを思っていたような気がします。新装開店までのちょっとの間でしたが。しかし、その新装でこのように入れ替わります。

B1F:コンチネンタルIII
1F:スーパーバニーガール
2F:ムサシIIなど
3F:アラジンII
4F:初代アラジン
5F:コンチネンタル

後に4階は「スーパープラネット」となりましたが、5階のオープンと別タイミングだったかと。「スーパーセブン」がハズれてしまったので、次に主戦とする機種を探すことになります。選んだのは「コンチネンタル」でした。なぜならば、モーニングが取りやすかったから。

「コンチネンタル」のコーナーは“どこかのシマ全台がモーニング”というもの。長めのシマは4つあり、基本的に前日モーニングだったシマとなることは滅多にありませんでした。そう、毎日のように通っていれば「昨日がココで、一昨日がココだから、今日はココの可能性が高い」と推測できたのです。1000円でBIGを引いて、残り70枚になるまで回して連チャンに期待。70枚は交換する。クソガキですね〜。この1年間ほぼ負けていません。よく出禁にならなかったな・・・と。

大変だったのは、朝イチにしっかり行くことでした。当時の開店時は、フロア毎の自動ドアの前、踊り場や階段に並ぶ・・・ではなく、集まるシステムとなっていました。「コンチネンタル」は5階。早めに行かないと、その手前の階の集団に邪魔されて上まで辿り着かないのです。大元の1階シャッターが開くのは朝9時25分頃。その頃には下でスタンバってましたね。

後ろの人は、前を掻き分ける必要があります。まさに鉄火場。熾烈な台取り競争でした。足を踏まれても大丈夫なように鉄板入りのブーツを履いて。この1年間でウォークマンが3台壊れましたとも(笑)。


そんなある日「史上最大の作戦」というよく分からないものが始まります。それ以前からあったのかもしれませんが。今で言うイベント営業の先駆けです。現在のイベント営業は「いつもよりも集客できることを見越して設定を入れる」というのが一般的となっているように思えますが、史上最大の作戦は違いました。目的は普段から来てくれている常連客への還元だったのでしょう。史上最大の作戦に参加するには、通常営業でゲリラ的に配られる参加補助券を何枚か集める必要がありました。稀にある新装も同様でしたね。

イベント営業という前衛的なもの。常連客に還元するという普遍的なもの。その両方を兼ね備える狙いは、広告規制の今でも考えさせられるところがあります。今のホール、常連として通うことに何のメリットがあるのだろうと。その還元したい常連客への周知も頑張っていました。そのイベ日は、ヤクルトのタフマンと夕刊紙が無料で配られていましたね。それも込みで覚えております。

なお、私が貯まった参加券を使ったのは「セブンボンバー」の新装初日でした。その日は18時開店で1/2の台がモーニングだったなあ。モーニングが飲まれて追い銭1000円から3500枚ほど出た記憶。楽しかったなあ。

この当時、新宿本店のトイレにはこのような貼り紙がしてありました。「狭いトイレですみません。建物も古くてすみません。新装も少なくてすみません。すべては出玉のために」出るor出ないしか考えていなかったクソガキには目から鱗でした。費用がかかれば出玉は減る。そんな当たり前のことを堂々と教えてもらったのです。

時代とともにトイレも新しくなりましたし、この貼り紙もなくなりました。ただ、このユーザーが当たって楽しむことが第一という姿勢は変わることがなかったです。だから名店なんです。聖地なんです。

次にお世話になったのは5年後。そんな生活をしていたにも関わらず大学に合格しまして。しかし、その通学路に新宿は入っておらず、来る機会がなくなっていました。そして、就職して勤務したのが新宿。これがまあ、ブラック企業なんて素敵な言葉がない時代でして。あっという間に心身を持ち崩して退職。その退職届を出しに行った日にこう思ったのです。

「1回もサボリーマンをできなかったな。最後にスーツ姿でパチスロを打って帰ろう」と。打ちたかったのは思い出の詰まった「コンチネンタル」でした。とっくに4号機時代となっていましたが、あまり好きではなかったんですね。グリンピースに来なくなってから好んで打っていたのは3号機の裏モノ。4号機には連チャンしないイメージがありましたし、何よりもリプレイがウザったい。

ところが「コンチネンタル」は満席。同じフロアにあった「ニューパルサー」に座ることとなってしまいました。

この当時、グリンピースの壁一面には、その設置機種の大量リーチ目が貼られていました。怪しそうな出目となるごとに確認。「あっリーチ目だ」これが楽しいと感じちゃったんですね。4号機も食わず嫌いせず触ってみようか。そう思えた1日でした。この日に「コンチネンタル」に座れていたら、今の私はいないかもしれませんね。

私その機種が設置されているホールで楽しさを教えてもらったわけです。これが手っ取り早い。「楽しさはメディアを見て勉強してね」ではいかんのです。その機種の面白さを伝える最も効率的な場所は、その機種が設置されているホールだと学びました。そうして、その機種のファンになった人が、そのホールのファンにもなるのです。


時は流れて(この間にもしょっちゅう行って学んでいましたけど。バラエティコーナーもグリンピース系列が最初だったかも)2006年。爆裂AT機やストック機が席巻するようになって、グリンピース系列が再び脚光を浴びることになります。新宿本店の2号機や3号機を含め、4号機の技術介入機など古い機種が残っていたからです。私も通いまくりました。

2006年6月。検定の切れた4号機以前の機種たちが一斉に撤去されます。この時にグリンピース系列で「アツい気持ちを応募用紙に書いて選ばれたら、ハズすことになる機種の下パネルをプレゼント」という企画を開催します。

この当時はすっかりライターを始めてロケでもお世話になっていたので、裏から連絡すれば良かった・・・とも思いましたが「1年間コンチネンタルを打っていました。今ではライターです」と応募。見事に当選します。

メーカーによる下取りや廃棄の関係もあるでしょうが、下パネルがそんなに必要とも思えません。ならば、グリンピースのように好きなユーザーにプレゼントしても良いのではないかと。そうやってパチスロを好きな人と繋がれれば文化にもなりえますし、そのホールのファンも増えることに繋がるでしょう。

ユーザーにとって、出所が分かるものって貴重なんですよ。我が家にも実機はいくつかありますが、現役の時に私が打ったホールの実機ではありません。これはパネルだけですが、クソガキだった時代に間違いなく座っていた台のパネルです。こちらのほうが家宝です。

規制などで今もできるか分からないですけどね。そのホールに集って打っているユーザーは、パチスロのファンなんです。それを考えて先頭に立って、いろいろとアイデアを出してくれていたランドマークこそ“パチスロのデパート”グリンピース新宿本店だったように思えます。私のパチスロ歴とほぼ同じ時間ありましたからね。いつまでもあり続けると勝手に思い込んでいました。そう信じていました。それだけに悲しいです。

と、お通夜のようなモードですが。グリンピース系列として池袋東口・池袋西口の2店舗は元気に存続します。このグリンピースイズムは私が書いている以上に引き継いでいただけることでしょう。池袋に行く際には私も必ず寄るようにしています。
「コンチネンタル」を打っていた時代に開店待ちをしていた階段の踊り場。累計すると100時間以上いたことになるのかな。昔は照明がたくさんの豆電球で、実に暑うございました(笑)。

学んだことではないので流れ的に割愛しましたが、1991年当時の新宿本店といえば、絶叫のマイクパフォーマンスも特徴的でした。マイクは地下1階から5階まで共通。5階で「コンチネンタル」を打っていても「スーパーバニーガール、BIGボーナススタートおめでとうございます」と聞き取れるかどうか微妙なくらいの大絶叫、ギリギリでハウらないくらいの大絶叫が響いておりました(笑)。

あと細かいことでは、BIGが揃った際にフロア毎のファンファーレが流れてたとかですかね。実機から流れる機種固有のファンファーレとは別に。覚えているところでは、1階は猪木ボンバイエで、3階はウルトラセブン。5階はスタン・ハンセンの入場曲でした。今でもこれらの曲のイントロを聞くと、新宿本店の光景が目に浮かびます。

そういう時代だったんですよ。

当然、1月31日の最後の日も行きましたよ。その1日だけのために5号機を入れ替えるお茶目な姿勢というか「ここまで支えてくれたパチスロファンのために」という精神もあって、惜別のファンで大混雑。しかも、グリンピース。こういう時に出すんです(笑)。2006年の4号機以前の撤去の時も最後まで設定を使っていましたし。

用事を済ませてからの遅い時間からだったこともあり、空き台を探すのも苦労しましたとも。最終的には、思い出の場所にあった「マイジャグラーIII」で、最後の5号機も満喫することができました。

池袋は残るのでひとまずですが、長い間、お疲れさまでした。ありがとうございました。池袋でもよろしくお願いいたします。